エピソード12 — 人工的思考の誕生
思考が「形式化できるもの」になったとき。
人工知能は、最初から「学習する機械」として始まったわけではありません。
出発点にあったのは、ひとつの哲学的な確信でした。――思考(推論)は、ルールとして書き下せるのではないか。
もし推論が明確な規則に従うなら、それは定式化できる。
定式化できるなら、プログラムにできる。
そしてプログラムにできるなら、機械もまた「推論する」ように見えるかもしれない。
エピソード12では、論理学や形式体系に支えられた初期AI――記号(シンボル)とルールによって思考を再現しようとした時代――をたどりながら、その可能性と限界、そしてそこに潜む「人間理解」を問い直します。
リフレクション
初期AIは、強い知的伝統を受け継いでいました。それは、思考とは本質的に形式(フォーマル)な構造として表現できる、という見方です。
推論は、明示された規則にもとづいて記号を操作することとして理解されました。そこでは、知性は問題解決の機能として定義され、心はあたかもプログラム可能なものに見えたのです。
実際、限定された領域ではこの方法は驚くほどよく機能しました。
機械は論理的手順に従い、形式的な証明を実行し、推論を段階的に再現することができました。
しかし、人間の思考は「限定された領域」だけで起こるわけではありません。
言葉は多義的で、曖昧さを含み、使い方や文脈で意味を変え、意味は形式をはみ出します。そして、判断は計算だけに還元できません。
人工的な思考が、こうした生の現実の複雑さに直面したとき、その限界が露わになりました。
そこで浮かび上がるのは、より根本的な問いです。
問題は機械にあったのか――
それとも、私たちのこうした知性の定義が狭すぎたのか。
このエピソードは、まずこの問いを開きます。
そして次のエピソードでは、その展開をさらに追っていきます。
考えるための問い
あなたが「知性」と言うとき、それはどのような力を思い描いているでしょうか。
論理的に考える力でしょうか。それとも、状況を読み取り、判断する力も含まれているでしょうか。物事をルールや手順として整理し、再現できるとき、それで十分に「理解」したと言えるのでしょうか。
意味は、背景や文脈へのまなざしを抜きにして成り立つのでしょうか。もし機械が推論の手順を正確に実行できるなら、それは知性を持つと言えるのでしょうか。
それとも、なお何かが欠けているように感じるでしょうか。私たちが日常で下している判断は、どこまで計算や手順に置き換えられるでしょうか。
その背後で働いているものは何でしょうか。知性を「計算する力」として理解するとき、教育とは何を育てる営みになるのでしょうか。
そこからこぼれ落ちるものはないでしょうか。
エピソード11 アレントとフランクル / 全エピソード / エピソード13 ウィトゲンシュタインの影 (近日公開)

