エピソード 1 :ギュゲス- 権力・不可視性・道徳的誘惑

このエピソードでは、「ギュゲスの指輪」の物語を手がかりに、「行為の結果について責任を問われないとき、人はなお善にとどまることができるのか」という問いを考えます。

リフレクション

ギュゲスの物語は、プラトンの『国家』(第二巻2:359a–2:360d)に記された物語です。
「誘惑」の物語として読まれることが多いのですが、この物語は、いくつもの根本的な問いを突きつけます。ギュゲスが手にしたのは、「自分の行為が誰の目にも見えず、知られず、その結果について責任を問われない」という状況でした。

「見えない」ということは、その行為の結果について、「道徳的にも法的にも責任を問われない状況に置かれる」ことを意味します。
そのとき人は、なお善にとどまることができるのでしょうか。
それとも、人は思っている以上に簡単に悪へと踏み出してしまうのでしょうか。

第一に、人は、頭では「してはいけない」と分かっていても、現実の場面では一線を越えてしまうことがあります。
分かっていることと、実際の行為とのあいだには、しばしばこうしたズレがあります。
私たちが悪に向かう行為を思いとどまっていられるのは、多くの場合、見られている、評価される、責任を問われるかもしれないという条件に支えられているからにすぎません。
しかし、その条件が失われたとき、人は分かっていながら誤った行為に手を伸ばしてしまいます。

これは特別な人格の問題ではなく、誰にでも当てはまる人間の弱さだと思います。
ギュゲスの物語は、この「人間のもろさ」を、眼に見える形で示し、鋭く問いかけています。
「もし、あなたが、こんな指輪を手に入れたら、どうしますか?」

第二に、現代において重要なのは、この「見えない状態」が、偶然や複雑さの結果として生じるだけでなく、
権力をもつ人によって、あえて組織の中に組み込まれる場合があるという点です。
透明性や可視性、外部からのチェックが意図的に弱められ、意思決定の過程が見えにくく設計されると、 権力は保持されたまま、その行使の過程だけが見えなくなります。

このような構造のもとでは、不可視性そのものが腐敗を誘い出す条件となります。 そして、見えない状態が「都合のよいもの」として維持されていくようになります。
何か、思い当たることはありませんか。

第三に、今日、デジタル環境の中で、この「見えない状態」は、自分が誰であるかが見えなくなる匿名性という形でも広がっています。
投稿者の正体が分かりにくくなると、人は普段なら口にしないような暴言や虚偽、相手を攻撃する言葉を、ためらいなく発してしまうことがあります。
匿名性は、本人のアイデンティティーを覆い隠し、その不可視性は、ギュゲスの物語と重なります。

それは同時に、「自分がどういう人間として生きてゆくのか?」――見えようと見えまいと――という、「自分の在り方」そのものへの問いでもあります。

第四に、この問題は、私たちが長く前提としてきた 「人間は理性的に判断し、行為する存在である」という人間理解そのものにも疑問を投げかけます。
人は理性的な判断や自己理解をしたうえで行動しているように見えますが、
実際には感情や衝動が行為を方向づけ、理性はあとからそれを説明しているにすぎない場合も少なくありません。

ギュゲスの物語が示すのは、理性が欠けているから悪が生じる、という単純な話ではありません。

分かっていながら行為を制御できない、あるいは自ら踏み越えてしまうという、人間の現実です。

これは、後のエピソードで取り上げる「影響されやすく、感情的な人間」という人間理解へとつながっていくと同時に、 人間は幾重にも重なった文脈――コミュニティーや人間関係――の中で心情を育み、生きている存在であるという、重層的な人間観への問いを開きます。

人間を見つめるとき、個人の内面だけでなく、人が置かれた環境や、生きているコミュニティーとの関わりの中で、アイデンティティーや存在の意味が形づくられていく。この物語は、そうした<文脈的・解釈学的なアプローチの必要性>を、静かに示しているように思われます。

動画は、CC をクリックすれば、字幕がでます。

考えるための問い

  • 行為の結果について責任を問われないとき、人はなお善にとどまることができるでしょうか。

  • 分かっていることと、実際の行為が食い違うのは、なぜなのでしょうか。

  • 不可視性が意図的に組み込まれた組織では、どのような事態が生じやすくなるでしょうか。

  • 自分の正体や責任が見えなくなるとき、私たちの言葉や行為はどのように変化するでしょうか。

  • 人は本当に、理性によって行為を選んでいると言えるでしょうか。